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ミッチーブームと館林 [天皇関係雑感]

博論が終わったので気分転換に旅でもと思って群馬の館林に行ってきた。
しかし、結局研究素材を探しに行っているので、はたして気分転換なのかは疑わしいが。

今回館林に行ったのは、「ミッチーブームが地方に残したものは何か?」ということを少し調べてみたかったからだ。
ネタ元は、『週刊文春』1959年4月20日と『週刊サンケイ』1959年4月19日の館林ルポ。
順を追って説明してみよう。

まず、ことの起こりは1958年11月27日の皇太子(現天皇)の婚約者として正田美智子(現皇后)が決定したということから始まる。
この発表で館林は大きく注目されることになる。
それは、美智子の先祖は館林出身であり、かつ彼女自身が戦争中に短期間ではあるが館林に疎開をしていたためである。

正田家は17世紀に館林に移住し、米穀商として成功を収めた。明治期に入ると醤油業も始めていった。
美智子の祖父・貞一郎は正田本家の次男の息子として生まれ、館林で製粉業を起こした。これが今の日清製粉である。
貞一郎の三男・英三郎が日清製粉を継ぐことになるが、この英三郎の娘が美智子である。

このため、館林は、正田家の実家や正田醤油、美智子が疎開時に通っていた小学校などが観光コースとなったりするなど、一大観光ブームが巻き起こる。
さらに、館林市も提灯行列やら花火大会など、次々とイベントを行っていった。また織物組合は「ミッチー紬」を販売して一儲けをたくらんだ。

そして一番のメインになったのが、「記念館」の建設である。
上記した週刊誌の記事は、この記念館をめぐるドタバタを描いたものである。
館林市は正田家からの寄付金をあてにして1億5千万の予算を組んで、公会堂を作ろうと計画した。
しかし、「ご成婚」を商売に利用しないということを決めていた正田家は、全くお金を出そうとしなかったため、計画が進まなくなった。
要するに「ミッチーブームに踊らされた連中」として館林は取り上げられたのである。

その後の話は特に書かれていない。それに実際にどのような経緯があったのかについては、詳しくはわかっていない。
前からこの記事にひっかかりがあったので、とりあえず館林に行ってみようと思った。

さて、では何がわかったかということだが、いまブログに書いているということからわかるように、論文になるほどのネタは見つからなかった。
だが、なぜ当時館林が公会堂を作ろうとしたのかということはわかった。

この当時、館林には公会堂が存在しなかった。そのため、何かイベントを行うときは小学校の講堂を使うといった不便を強いられていた。
そして、近郊にある桐生や栃木、佐野に公会堂に類する施設のあったことが、館林にとっては気になっていたらしい。
特に、同時期に完成した桐生市の産業文化会館(2億円かけたらしい)が館林にとっては「ライバルにやられた」みたいな感じがあったようだ。
そこで、降ってわいたミッチーブームに乗じて、この際公会堂を作ってしまえという話になったようである。

当時の資料を見ていると、まずは桐生の規模を目指そうとした(予算1億2千万)ようだ。
だが、寄付金が思うように集まらなかったため、予算を4000万まで縮小した。そのため、同規模の佐野や栃木に議員が視察に出かけている。

しかも、記念館建設のため、日の丸を掲げる旗竿を10万本作って全国に販売し、その利益を建設の足しにしようとしていたらしい。
そしてとりあえず1万本作ることになって製造したが、1959年6月の段階で1300本しか売れなかった。たまたま、まだ3000本しか製造していなかったようだが、この計画のずさんさについて議会で問題になっている。
なおこの追及を受けた当時の市の総務課長は、「熱がさめかかっておる当委員会(注:記念事業委員会)の事務の担当者といたしまして本当にしりをはたかれた思いで眠むけも一瞬にしてとんだのであります」という答弁をしており、要するに4月の結婚式以後、やる気を失っていた姿が容易に想像できる。

他にも議事録によると、寄付金は日清製粉、正田醤油、東武鉄道から各1千万~2千万ずつもらおうと画策していたようである。
実際には大口の寄付は市内の名望家7人が100万ずつ出したぐらいだったようだ。

また、上記の文春とサンケイの記事は、地元でも話題になったようである。
館林のローカル新聞『両毛春秋』は、結婚式の後に次のように書いた。

「処でそれはそれとしてミッチーの婚約で決定した記念事業の方は忘れては困る。それでなくてもくだらない週刊誌につまらない記事を書かれたのだから、意地にでも一日でも早く記念事業を実現したいものだ。〔中略〕ここでやらなきゃ、館林の恥になる。つまらぬ週刊誌やそれを読んだ人にそれ見た事かと笑われる。」

でも、その後も記念館建設は迷走を続けたようだ。1959年の末には、結局改築する市役所と併設することになり、記念事業委員会は解散した。
しかもそのころに、公共工事をめぐるゴタゴタが起きて議会が紛糾するなど、建設を進められるような状況ではなかったらしい。

結局公会堂が作られたのは、1974年になってからであった。これが現在の館林市文化会館である。
建てられた理由は「市制施行20年記念事業」としてであった。つまり、奉祝事業であったことは忘れ去られたのである。

なお、館林市が行った奉祝事業はもう一つあった。
それは「しらかが(白加賀)」という梅の木の苗木を全家庭に配布するというものである。
これについては記念館とは違って、きちんと実行されたようである。
しかし、ネットで調べてもそういうことをやったという話は出てこない。
館林の酒造業者が白加賀を使って梅酒を造っているみたいだが、特に御成婚に関係があったというキャッチフレーズは見ることはできない。
こちらも、記憶の奥底に忘れられたということなんだろう。

結局、ミッチーブームは、何も館林に残さなかったのだろうか。
もちろんそこに住む人たちの心の中はわからない。
ただ、館林の場合、盛り上がる中心にいる正田家が、奉祝から一歩引いていたことが、強烈な記憶を残すことを妨げたということはあったように思う。

館林の正田醤油の研究所のそばに、昔の本社屋を利用した記念館が建っている。
そこには正田家の系図が飾ってあるのだが、美智子の名前は無い。父の英三郎の代までしか分家は記載されていない。
そして記念館の中には、当時の社長と美智子が一緒に写っている写真や一族と写っている写真が何の説明もなくひっそりと飾ってある。
わかる人にはそれがなんだかわかる。それで十分というのが正田醤油にとっての企業戦略なんだろう。

天皇制の支持者の多くは、別に声高に天皇への支持を語りはしない。「わかる人にわかればよい」ということ、なんだかそういうことのような気がする。
結局館林に吹いたミッチーブームという嵐は、1年弱の「うたかたの夢」として消えていったのだろう。
その現象だけを見て、天皇制の支持基盤を検討しようとするのは、やはり簡単ではない。

館林の例はおそらく館林固有の問題であって、あまり一般化はできないように思う。
ミッチーブームの影響については、また機会があれば調べてみたい。積み重ねていけば、なにか見えるものがあるかもしれない。
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